人の幸せとは座標を合わせるような物なのだと思う

幸せになるということは理想の自分という点に今の自分を移動させること。つまり座標あわせなのだ。

 

階段を上に上っていくようなイメージではなくて、自分がしあわせだとか今の自分が理想の自分だとか思える場所まで自分という点を移動させるための行為を成長というのだ。

 

だから人が幸せになるために歩く距離や方向はその人の幸福の位置によって異なるし、人から見たら明らかな退化、敗走であっても、進んでいる本人からしたら今まさに自分の幸せの場所へと歩みを進めている最中だったなんてことは結構ある事なんじゃ無いだろうか。

 

だから自分と他人の進むべき距離や方向を比べて得意げになったり、逆にふさぎ込む必要なんて無いんだと思う。

 

私には自分の幸福が今の自分からどのくらいの距離があって、どの方向にあるのかを考え、探しだし、歩いて行くことしか出来ない。

 

それにしたところで、幸福の位置は歩いて近づくたびに位置が微妙に変わったりするのだから、常に自分の幸福を見つめ続けていないと、いくら歩いても幸せにたどり着けなくなる。本当は幸せなんかじゃない位置にとどまって自分は幸せなんだと勘違いして不幸な一生を過ごすことにもなりかねない。

 

思考停止しちゃ駄目だ。人にゆだねちゃ駄目だ。自分が幸せの場所にちゃんとたどり着くためには一人にならなくっちゃいけない。他人本位は一生不幸だ。

 

一人で、常に自分の幸せを見つめ続け、座標あわせをし続けること。それが幸せになるために必要なことなのだ。